薫の休日

 

 

「小腹が空いたな」

 などと独り言をぼやきながら、この俺、閃鉄こと梓原薫はF市の中央区に走る大通りをこれといった目的もなく漫歩する。
 日々の激務、迫りくる脅威への緊張感、エージェントとしての責任。それらの海から一時浮上し息継ぎを行うように、俺はふらりふらりと一般社会の活気付いた街を歩いている。

 幸い今日は仕事がない。
 UGNで魂を絞り上げながら任務をこなし続けている俺にとって、一度精神をさっぱり洗うには外の空気を吸うのが一番だ。

 表の世界の街を散歩するのは嫌いじゃない。
 道行く人達の何気ない日常の一コマを見るのは俺のささやかな楽しみだ。
 下らない談笑をかわす男子高校生グループ。二人で買い物袋を提げながら歩く親子。公共の小広場でギターを弾く未来のアーティスト。
 俺達UGNが守っている彼らの日常を実際に目にすると、日々の重く暗い様々なしがらみによって険しく塗り固められた表情筋が自然と解けるようであった。

 俺達がこの日常を守っている、なんて少し傲慢だろうか?
 でもいいじゃないか。文字通り命を懸けて戦い続けている俺が、ここにささやかな自己満足を感じたってバチは当たるまい。俺は自分に甘い男なのだ。

「にしても……」

 腹が減った。
 俺は半分サイボーグのような機械人間に成り果てた男だが、この俺をこの世に生を授かった一つの生き物たらしめる食の喜びを完全に捨てるまでには至っていない。

 この間同僚に「お前ってメシはガソリンとか飲んでそうだよな」などと言われた際には、「の、飲んでねーし! そこまでサイボーグじゃねーし! まだまだ人間だから! まだまだ人間いけっから!」などと、まるで自身のおっさん化を認めない三十代後半の男のような反応をしてしまったことがある。その程度には、俺はまだまだ人間をやれている。はずだ。多分。見た目からはサイボーグだとかわかんねえし。

 ともかく、俺は普段は栄養ゼリー食やサプリメント等で体と腹に鞭を打ちながら戦場を走る生活を続けているため、味気ある食事からは強烈な誘惑が向けられるのが常。ちゃんと俺の胃は人間らしい食事を求めているのだ。

 さて、街では探せば無数に飲食店が目に入る。
 洒落たカフェやファストフードチェーン店など、多様な店が建ち並んでいる。
 少し鼻を利かせば、食欲を唆る様々な香りが胃を刺激してくる。

ハンバーガーか……アリだな。牛丼もいいねえ〜。あ、クレープうまそ〜」

 上機嫌に自身の胃袋と今日食べるものを相談しながら歩いていると、一つの喫茶店が目に留まった。

「……おっ、この店いいじゃなーい。洒落てるし、落ち着けそうだ」

 緑と茶色を基調とした外観の喫茶店は、騒がしい街中にもかかわらず落ち着いた静かな空気を携えていた。
 店の入り口に置かれている小さな黒ボードには、「本日のおすすめ "三種のトマトソース香るナポリタン"」と書かれている。

ナポリタンかぁ〜……そういえば何年も食ってないな」

 ケチャップソースが絡んだパスタにベーコンや玉ねぎ等の具材が入ったシンプルな料理だが、時々無性に食べたくなることがある。
 少々子供っぽい料理という印象があるかもしれないが、俺はむしろそこに暖かみを感じるようで好きだ。

 さて、注文も大体目処がついたところで、俺は入り口のドアを開いた。
 チリンチリンと、入店を知らせる軽快な鈴の音が静かに響き渡った。

「ちゃーす」

 冷房の効いた店内は洒落たBGMが流されており、ふわっと漂うコーヒーの香りがとても心地良い。こじんまりとしてはいるが、シックな内装と相まってそれもまた良い味を出している。
 小規模な店ゆえの席数の少なさはあるが、全体的に客で埋まっているところをみると、この店の繁盛具合が窺える。
 店の雰囲気を楽しんでいると、入店の鈴を聞いた女性店員が一人、俺のもとへと小走りで接客にやってきた。

 ……が。

「……んん〜?」

 俺はその店員の顔を見て眉をしかめた。
 というのも、別にこの店員が妙に奇抜な格好だったり、変な挙動をしているといったわけではない。
 肩に届くか届かないかの長さに揃えられた金髪。その髪は一部青色のメッシュが施されており、金と青のコントラストが少々特徴的だ。そして黒い瞳が光る鋭い目つき。首には飾りっ気のないペンダントが携えられている。

 これといって違和感の見当たらない、何の変哲もない一人の女性……なのだが。
 彼女は俺の数少ない知り合いのうちの一人に限りなく酷似するのだ。
 いや。
 というよりこれは、紛うことなく……。


「あれ? 長尾ちゃん?」

「お帰り下さいませ」


 入店拒否された。


◇◇◇


「ご注文はお決まりでしょうか?」

「え〜っと……そうだなあ」

 席へ案内され着席した俺は、入り口から引き続いてその女性店員に注文を聞かれている。
 店員はニコニコと笑顔を崩さずに、俺の口から注文が出るのを待っていた。
 そして俺は完璧な営業スマイルを崩さないその店員に向かって、一呼吸置いたのち、一つの注文をした。

「とりあえず胸倉から手を放してほしいかな」

 俺は何故か店員に胸倉を掴まれていた。

「お客様……わがままをおっしゃられては私も困ります」

「あいたたたたた……ッ、おかしいだろ! 胸倉を掴んで行う注文取りがあるか!」

「胸倉うんぬんといったものはメニューにございません。メニュー表もろくに読めないようなガラクタサイボーグ頭のお客様は当店では対応できかねます……。というわけで、早くお帰り下さいませ」

「こんな状態でメニュー表読めるわけないじゃん! 痛い痛い痛い首折れる!」

 まさか喫茶店に入って最初にする注文が命乞いになるとは思っていなかった。
 俺は胸倉に伸びている店員の手を必死にタップして手を放すように懇願するが、店員はその懇願を聞き入れる様子はない。
 それどころか、般若と見紛うほどの形相で俺を睨みつけてくる。

「……それで。な、ん、で、アンタがここにいるのよ」

 さて、この金髪の店員、ただの店員ではなかった。
 名前は長尾咲綾。またの名をアカユリ。知り合いなんてレベルではない。俺と共に熾烈な戦場を戦い抜いたこともある、UGNに所属するチルドレンである。
 そして、ルミネセンスに心酔するUGN屈指の問題児だ。
 なぜか俺のことを目の敵にする節がある。現に今も、彼女の手によって締め殺されそうな勢いである。

「偶然! 偶然だよ! たまたま入った店なんだって! まさか長尾ちゃんがここでバイトしてるなんて思いもしなかったんだよ!」

「…………チッ!」

「ひいっ」

 強烈な舌打ちと共に、胸倉を投げ捨てるように放された。
 仮に第三者がこの光景を目にしたなら、不良の恫喝と見紛うような絵面だろう。

「いててて……。もぉ、なんでこんな酷いことするの? 俺何か長尾ちゃんに悪いことした?」

「したわ。入店したじゃない」

 俺は顔を見せるだけで悪行判定されるらしい。

「それにしても長尾ちゃん」

「何よ」

「なんでバイトなんかやってんの? 任務諸々こなしてたらお金に困ることはないはずだけど」

 UGNチルドレンは基本的に個人で働く必要はほとんどない。
 UGNにおける任務に日々身を投じていれば、それだけで金が与えられるからだ。
 それは日常を捨て去りその身を捧げ戦う彼らに対する当然の報酬であり、わざわざ別の収入源に汗を流す必要はないのだ。
 バイトなんてしてる奴は変わり者くらいしかいないと思っていたのだが、長尾ちゃんはなぜ急にバイトなど始めたのか。

ダンタリオンにボコボコにされたあとの療養期間中は任務どころじゃなかったのよ! 今も完全回復とまではいってないけど、バイトくらいはできるから、ここらで少しくらい稼いでおこうと思っただけよ。……諸事情で今お金が必要なのよね」

「なるほど」

「そ。修理に出せばすぐ直って、ガソリン啜ってれば生きていけるようなメカ男とは違って私は生身の人間なの。傷を治すのも一苦労なのよ」

「そ、そこまでサイボーグじゃねえから! 修理とかそんなメカ玩具みたいな直し方しねえから! ちゃんとご飯食べないと死んじゃうから! まだまだピチピチの人間ですからぁ!」

 俺がガソリンを飲んで活動しているという噂は、俺の想像以上に広まっていたらしい。
 俺は滲む涙を涙腺の奥に捻じ伏せながら、悲しくも切ない現実を噛み締めていた。
 そうかあ……機械化も7割超えたらもうサイボーグかあ……。そうかあ……。

「サイボーグなのか人間なのかわかめなのかハッキリしてくんない? ややこしいのよね、アンタの体」

「わかめは言ってないだろ! せめてサイボーグか人間かで選んでくれよ! わかめじゃないよこの髪型は! お洒落でやってるんだよ!?」

 長尾ちゃんの中では、梓原薫を構成する要素として、「サイボーグ」と「人間」に加えて「わかめ」がそこそこの比率で入っているらしい。

「……で、注文は? 早くしてくんない?」

 白紙の伝票を挟んだ小ボードで机をトントン叩きながら急かしてくる。
 ハイハイと軽く返事をして、俺はメニューを開いた。しかし少し考えたあと、すぐに俺はメニュー表を閉じた。
 暑い街中を長々と歩いてきたため、とりあえずは喉を潤したい。水分の補給及び上昇した体温の冷却を体は求めていた。
 すなわち、まずは水が欲しい。

「そうだなあ。とりあえず水くれない?」

「厨房に水入れるとこあるから。自分で勝手に注げば?」

「だいぶセルフサービスきいてるね、ここ」

 客が厨房に立つ店など聞いたことがない。

「ってか、アンタ二回以上にわたって注文するつもり? 居酒屋じゃないんだから。何度もアンタに呼びつけられるの嫌なのよ。今、全部決めなさいよ。早くして、ほら」

「そもそも水は注文なしでも最初に出してくれるもんなんじゃないのか……?」

「なんでアンタにそんなサービスしなきゃいけないのよ。ごちゃごちゃ言ってないでさっさと決めなさいよ。優柔不断わかめノッポ」

「なんで喫茶店に来て店員に虐められなきゃならないんだ……」

 落ち着いた空間でリラックスするために訪れた喫茶店のはずだったのに、何故俺は今泣きそうになりながら下唇を噛んでいるのだろう。
 涙が溢れそうになる目頭を押さえながら、再びメニュー表を開いた。
 メニュー表を一瞥したあと、ふっと俺はとあるメニューを思い出した。

「あ、そうだ。あれがいいな。ほら、店の入り口にあったボードに書かれてたナポリタン」

「何? 『本日のおすすめ』に書いてあるやつ?」

「そうそれ! "三種のトマトソース香るナポリタン"ってやつ。それ食べたいな」

「嫌よ。あれ用意するの時間かかるし面倒くさいのよね」

「おすすめなんじゃないのかよ」

 あろうことか店側が勧めたメニューが却下されてしまった。

「フン。あのボード、あんたに対して書かれてるとでも思ってたの? 自意識過剰もいいとこね」

「じ、自意識過剰とかじゃないし!」

「はあ? そんなチャラチャラしたわかめヘアー晒しといてよく言うわね」

 ここぞとばかりに罵詈雑言を叩き込まれてしまう。
 なぜノイマンでもない者が《言葉の刃》を使えるのか。
 天性のものだろう。恐ろしい。

「ていうかあのボード、客全員に向けて書かれたものじゃないのか……? 俺だけ対象外とかある?」

 俺は入店歴のない店に出禁にでもされてしまっているのだろうか。

「うっさいわね。私の独断で、アンタにだけ無効なのよ。さっさと諦めなさい」

「えぇ……バイトが持っていい権限じゃないでしょ」

 この長尾という女、バイトの身でありながら遠慮というものが雀の涙どころかヒヨコの毛先ほどもない。
 立ち振る舞いがUGNにいるときと大差がない。気に入らない人間は、上司だろうと同期だろうと、「根暗」だ「優柔不断ノッポ」だのと遠慮がないのだ。
 現に、UGNでは上司にあたる俺だが、この通り虐められ泣かされている。
 近いうちにこの店の従業員すべてが制圧されてしまうのではないかと心配になってくる。

「長尾さん長尾さん」

 すると、カウンターから店主と思われる男が長尾ちゃんに声をかけた。
 豊かな髭を携えた、大柄で清潔感のある男だ。

「なんですか店主」

「ちょっと手を貸してもらえないかな? 手伝って貰いたいことがあるんだ」

 店主がお呼びのようだ。
 これは少々都合がいい。
 こちらは考える間も与えられずに「早く決めろ、早く決めろ」と急かされてきたのだ。挙句、選んだメニューは独断で却下される始末。

 長尾ちゃんには少しの間離れてもらって、ゆっくり注文を決める時間を貰おうじゃないか。
 店主の一声ならば、長尾ちゃんも大人しく従ってくれるはずだ。

「うっさいわね! 今注文聞いてんの、見たらわかるでしょう!? あとにしなさい!」

「ご、ごめんなさい……」

 この喫茶店、すでに店主が陥落していた。
 店主にルミネセンス様でも配置しない限り、この暴君を従順に働かせることは不可能なのではないだろうか。

「ほら、店主から呼ばれちゃったし。早くして優柔不断メカわかめノッポ。はーやーくーしーてー」

 悪口にメカが増えていた。

「ったく……」

 このままでは完全に言われっぱなしである。
 だが曲がりなりにも俺は上司。先輩としてここはハッキリ言ってやらねばならない。

「あのなぁ……そんな急にあれもこれも決められるわけが」

「何?」

「いえ、何も主張はありません」

 顔がめちゃくちゃ怖い。

「くそ……俺最初からナポリタンにする気まんまんだったから急に却下されて困ってるんだよなあ……。ってか、水がアウトならもうメニュー全滅じゃないのか……?」

 注文の多い料理店は聞いたことがあるが、まさか注文の通らない料理店が存在するとは。
 そうして俺がメニュー表を眼前にもたもたしていると、隣で長尾ちゃんがデカいため息をついた。

「はあ……。ま、これ以上やりとりしてても無駄にアンタの相手しなきゃいけなくなるだけだし。もういいわよ、ナポリタンで。さっさと終わらせたいわ。……で? 他に何か注文ある?」

「じゃあこの……ブレンドコーヒーを一杯」

「ハイハイ。じゃー、ご注文確認しまーす」

「覇気のない声だな」

 そうして長尾ちゃんは非常にダルそうな顔をしながら、伝票に書き込んだ注文を繰り返し確認し始めた。

「水。三種のなんちゃらナポリタン。コーヒー。ご帰宅用のお車の手配。以上でよろしかったですか」

「ああ。帰宅用の車の手配以外は合ってるよ。どんだけ帰って欲しいんだよお前」

「では失礼いたしまーす」

 雑なお辞儀をしたあと、長尾ちゃんは店長のいるカウンターへと向かっていった。


「……はあ」

 ようやく静かな時間がやってきた。
 オーダーでここまで傷心することは想定外だったが、ここからは穏やかな一人の時間だ。

「ふう」

 そうして俺は小さな吐息をもらしたのち、腕を組み膝の力を抜いてリラックスする。
 脱力のポーズ。
 俺が一息つくときによくする体制だ。楽で気持ちいい。

 料理を待つこの時間は、俺は嫌いではない。
 人によっては虚無と嫌悪されがちなこの時間だが、俺からすれば楽しみは幾らでもある。
 俺にとって基本的にこの時間は、店内を眺めて楽しむ時間だ。料理だけではない、この店のすべてを堪能するのだ。
 店の内装を眺めていると、色々と小さな発見があるものだ。

 例えば、カウンターの奥に見える大きな棚。
 瓶詰めのコーヒー豆が立ち並ぶその棚に、デフォルメの可愛らしい猫の置き物が置かれている。さらにそこから視線を上へ持っていくと、今度は猫のマークが随所に散りばめられた壁掛け時計がある。

「ふふっ、店主は猫好きかな?」

 導き出される結論は実にくだらないことだが、このように、連鎖的に思考が広がっていくのが楽しいのだ。
 そして俺は続けてまた店内の観察を始めた。

「おっ、あの鈴……」

 今度は、この店の入り口の扉の上部に設置されている、入店を知らせる鈴に目が留まった。
 あの鈴はどこかで見たことがある。
 あの鈴は、ここから近い場所にある小物店で売られているものと同じものだ。
 あの小物店では、あの鈴は新商品として販売されていたため、店主があの鈴を設置した時期が大体想定できる。

「あの鈴、買ったばかりだな。付け変えて大体2、3日ってとこか?」

 実にくだらない。
 だが、それでいいのだ。
 退屈しながら料理を待つよりはずっと有意義だ。

 などと考えていると。

 チリンチリン。

 眺めていた鈴が、音を鳴らした。

「おっと客か。繁盛してんねえ」

 入店を知らせる鈴の音だ。扉が開き、そして閉まる。

「いらっしゃいませ〜」

 長尾ちゃんは今店長の手伝いで手が塞がっているため、接客へ向かったのは別の店員だ。

「……一人です」

 客の声が聞こえてくる。女性の声だ。
 活力がなく暗い声だが、それ以外の特徴はこれといってない。
 ないはずなのだが。

「……んん〜?」

 俺はその声が妙に引っかかり、その客の方に視線を落とした。
 聞き覚えのある透き通った声色。煌びやかな金髪のツインテールに紅い瞳。
 見紛うこともない。
 彼女は……。

「ああっ、お客様申し訳ございません……。現在、満席でございまして。お待ちいただく形になってしまいますがよろしいでしょうか……?」

「……いえ……それなら、大丈夫です。失礼しました」

 あいにく俺を最後に満席になってしまったらしい。
 その旨を理解するやいなや、その客は店を出ようと扉に手をかけた。
 そこに俺は、ここぞとばかりに声をかける。

「おーい、天羽ちゃん! 俺の正面の椅子が空いてるぜ。奢るぜ。座りなよ!」

 我ながらなんて気の利く男なんだ。

「……………………」

 直後、天羽ちゃんの瞳から生気が消え去った。

 あれ? 俺なんかやっちゃいました?


◇◇◇


 相席になって五分が経過した。
 
「……」

「……」

 ここまでずっと無言が続いている。
 今俺の目の前にいるのは、長尾ちゃんと同じ、UGNチルドレンだ。
 その手の界隈ではその名を知らぬ者はいない、凄腕の戦士である。
 そんなUGN界のカリスマが、今死んだ魚のような目で座っている。

 俺と会話するどころか、目も合わせてくれない。
 長尾ちゃんといい天羽ちゃんといい、もしかして俺は知らないうちに女子高生のUGNチルドレンにこぞって嫌われてしまっていたのだろうか。
 これといって厳しく接したつもりもないし嫌がらせ等をした覚えもないのだが。年頃の女の子は色々と難しいのだろうか。
 などと考えて悲しくなっていると、奥の方から長尾ちゃんが料理を持ってこちらへと歩いてきた。

「はい、持ってきてやったわよ。ナポリタァァァアアアアアアアアン!? ル、ル、ルミネセンス様!?」

 天羽ちゃんを視認するやいなや、滑稽な奇声を放つ長尾ちゃん。
 そして長尾ちゃんを視認した天羽ちゃんはというと、

「………………なんでいるのよ……」

 死んだ魚の目から腐った魚の目に変わり果てていた。

「こらこら長尾ちゃん、人のコードネームを外で叫ぶんじゃないよ」

「な、なんでこんなところに……!? しかもこんな男と同席だなんて……!」

 俺の注意を完全にスルーする長尾ちゃん。
 手に持つ料理をガチャガチャと揺らして慌ただしく動揺しながら、天羽ちゃんに問いかける。
 すると天羽ちゃんは、投げやり気味に口角をひくつかせながら、重い声を捻り出すかのように事情を語り始めた。

「……私がここに来たのは……ホントに偶然なんだけど……この男が……無理矢理私を……この場所に連れ出して……」

「ちょ、ちょ、ちょ、言い方!

 人を性犯罪者みたいに言うのはやめてほしい。

「アンタちょっとこっち来なさい」

 グイッ。

「ぐえっ」

 ズルズルズル。

「いだだだだっ! 引っ張らないで!」

 手に持っていた料理を乱暴に机に置いたあと、長尾ちゃんは俺の胸倉を乱暴に掴んで店の奥の物陰へと腕尽くで連行した。

「アンタ、ルミネ……天羽様を強引に同席させたの?」

 長尾ちゃんが鬼気迫る表情で俺に迫ってくる。

「ご、強引って言い方は語弊があるけど……まあ、俺が声かけてさ。それで俺のテーブルに誘っただけだって」

 すると長尾ちゃんは手を額に当てて、深刻そうにため息をついた。

「アンタね……デリカシーがないの?」

「デ、デリカシー?」

「あのねぇ」

 俺はまた胸倉を掴まれて、無理矢理顔を引き寄せられてしまう。
 今日で何度胸倉を掴まれただろうか。
 もう襟元が伸びきっている。

「天羽様は、きっとダンタリオンの件で酷く傷心なさってるの。そんな中、あの任務で常に一緒にいたアンタの顔を見たら、嫌でも惨い記憶が蘇ってしまわれるでしょう!? それを同席だなんて……! ただでさえアンタと食事なんて虫唾が走るのに、トラウマがあるならなおさらだわ。なんて惨いことを……!」

「そ、そう……なのか?」

 途中長尾ちゃん個人の悪口が挟まっていた気がするが、言いたいことは大体理解できた。
 長尾ちゃんの勝手な妄想で心情が決めつけられてしまっている感は否めないが、それでもこちらがある程度察せるのであれば、できる限りの気遣いをすることはたしかに大事かもしれない。

「まあ同席してしまったなら仕方ないわ。できる限り、ダンタリオン関連の話題はしないように。わかったわね?」

「あ、ああ。わかった」

 そうして俺は、長尾ちゃんに背中を蹴り飛ばされたあと、天羽ちゃんの席に戻った。

「ふう……やれやれ」

「……」

 天羽ちゃんはまだ目を合わせてくれない。

「ったく……クールですこと」

 さて、何の会話をしようか。無言の相席もお互い気まずいからね。
 ダンタリオン関連以外の話題か……。
 ま、軽い世間話が定石だろう。最近の趣味とか、習慣とか、そんなところがいいだろう。
 何にしようか。
 ダンタリオン以外で……最近の習慣で……。
 ダンタリオン以外……。
 最近の習慣……。
 ダンタリオン以外……。
 最近の習慣……。

「天羽ちゃん。最近、墓参りイイ感じ?」

 ドタドタドタ。
 グイッ。

「ぐえっ」

 ズルズルズル。

「殺されたいようね」

「な、何がいけなかったんだ!?」

 俺は突如現れた長尾ちゃんに再び胸倉掴まれて物陰に連れ込まれてしまった。

「全部よ。この陰毛頭」

「自分、涙いいすか」

 シンプルに傷つく悪口を言われた。

「アンタね、遺族を煽る馬鹿がどこにいるっての!?」

「あいだだだだだだだだ!」

 胸倉から手を放してもらえたと思えば、今度は両手で両の頬を捻りあげられてしまう。
 凄まじい握力だった。
 普段は非常に頼りない膂力をしているはずの長尾ちゃん。俺の体を引き摺り回す腕力といい、この力はいったいどこから出てくるのだろう。
 俺を折檻する場合にのみ現れるこの剛力。俺への敵意を体現させたと言わんばかりの暴力性である。そんなに俺が嫌いなのだろうか。
 このモードならば、戦闘においてももう従者に頼らず自分で殴りかかった方が強いのではないだろうか。

「ってか、仮にトラウマが無かったとしても墓参りの話題なんてクソすぎて話にならないわよ!」

「そ、そんな……!」

「そんなんだから彼女の一人もできたことないのよ。この鉄クズ」

「自分、涙いいすか」

 あらゆる盤面から俺への罵倒へ転じることのできるその応用力、もっと他のことに役立ててはくれないものか。
 涙を目に浮かばせながらそう思った夏の昼下がり。


◇◇◇


「ご、ご注文をお聞きしましょうか」

  長尾ちゃんは別の客のオーダーを取っている最中なため、俺と天羽ちゃんは今、長尾ちゃんとは別のもう一人のウェイターに対応されている。

「……お、お客様……?」

 その店員は何やら動揺しているようだ。
 それもそうだろう。

「……」

「……」

 泥のような目でそっぽを向いて、一言も発さない女。
 両の頬が腫れ上がり、襟元が異様に伸びきった男。
 そんな二人が無言で対面して座っている。
 あまり関わりたくはないであろう珍妙な絵面が繰り広げられていた。

「注文いいですか」

「は、はい」

 片手で頬をさすりながら、俺はメニュー表を広げて店員に声をかけた。

「天羽ちゃん、何か頼みたいものある?」

「……じゃあ」

 そう言って天羽ちゃんはその虚ろな視線を店員の方へと向けた。

「……自決用のナイフを」

「天羽ちゃん、死に場所ここでいいの?」

 あろうことかメニュー表にないとんでも要求が飛び出してきた。

「申し訳ありませんお客様……そういったものは当店では扱っておらず……」

 扱っててたまるか。

「あ、天羽ちゃん、とりあえずコーヒーでも頼む? 俺は飲んだけど、美味いよここのコーヒー」

「……じゃあ、それで」

「かしこまりました」

 危うく俺の憩いの場で自害されるところだった。
 ほっと胸を撫で下ろしていると、店員がオプションの注文を取り始めた。

「コーヒーにミルクやお砂糖はお付けいたしましょうか?」

 そういえば俺が長尾ちゃんに注文したときはこんなオプションは聞かれなかった。
 アイツ、面倒くさがって省きやがったな。

「ブラックや微糖など、お客様のお好みに応じてご提供できますよ」

 店員が優しい笑顔で説明する。
 俺もこの店員に接客されたかった。
 ……さて、天羽ちゃんは何を選ぶのか。

「ブ、ブラック……い、いやっ……! 暗いのは、いやあっ……!」

 無糖に限りコーヒーでトラウマ発現する人初めて見たよ俺。

「ミルク三つくらいつけといてください」

「か、かしこまりました」

 店員は顔を引きつらせつつも、伝票に注文を記入していく。

「他にご注文は、ございますでしょうか?」

「天羽ちゃん。これとかどう? ドリアとか美味そうじゃない?」

 メニュー表には、美味を期待させる美味そうなドリアの写真が載せられていた。
 天羽ちゃんには是非美味しいものでも食べて、少しでも英気を養ってほしいものだが。

「ドリア……。ドリアといったら米……。米といったら丼……。丼といったら親子丼……。親子といったら……。パパ……ママ……ごめんなさい、ごめんなさい……」

「え? マジカルバナナでもやってんの?」

 天羽ちゃんはこの短い間に、自分を虐めることに関しては無類の腕前を身につけていたらしい。

「じゃあ天羽ちゃん、これとかどう? クリームシチューのパイ包み」

 気を取り直して俺は、別のメニューを指さした。
 クリームシチューが入った皿に蓋をするようにパリパリの香ばしいパイが被さった、洒落たメニューである。パイをスプーンか何かで割って食べる一風変わった料理だ。
 こういった、味以外の楽しみがある料理は俺も興味をそそられる。
 後日、今度はこれを食べるためにまたここに来ようかなと思ってしまう。

「自分でパイを壊して食べるんだってさ。面白そうじゃん」

 俺もやってみたいかも。

「自分で……壊す? 私が……この手で……? ひっ……! 違う、違うの……っ。パパ、ママ……私は……私は……っ」

「あ、店員さん。コーヒーだけでお願いします」

「か、かしこまりました」

 店員は逃げるようにカウンターの奥へと消えていった。


◇◇◇


「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーになります」

 男性の渋い声がした。
 と同時に、眼前にミルクの添えられたコーヒーが差し出された。
 コーヒーからは上質な豆の香りが立ち上り、鼻腔を優しく擽る。

「どもども、ありがとうございます。あ、このコーヒーは彼女の方に」

「かしこまりました。どうぞ、ご堪能くださいませ」

 重厚感がありながら落ち着きを感じさせる紳士的なこの声。
 持ち主は店主だ。
 先ほど情けなく長尾ちゃんに平謝りしていた人である。

「店主さんじゃないですか。このコーヒー、本当に美味しいですよねえ。何かこだわりが?」

「ははは、嬉しいですなあ。当店のブレンドコーヒーは、豆のこだわりは勿論として当店オリジナルの配合で心を込めて挽かせていただいております。いやはや……お客様にそう言っていただけると、バリスタ冥利に尽きるというものですな」

 ダンディな髭をいじりながら、照れ臭そうにはにかむ店主。
 猫の置物といい、お洒落な鈴といい、この店主、厳格そうな見た目に関わらずなんとも可愛いところがある。
 これがギャップというやつだろうか。
 心優しそうで好印象な人である分、長尾ちゃんに屈服させられていることが可哀想で仕方がない。

「ところで……お客様方は長尾さんのお知り合いでいらっしゃるのですかな? 楽しそうに会話なされていたものですから」

「ええ……まあ、そんなところです。すみませんねえ、騒がしくしてしまって」

「いえいえ、賑やかでいいものです。それに……この程度は日常茶飯事ですから」

「日常茶飯事!?」

 店主が遠い目をする。
 長尾ちゃん、まさか俺以外にもあんな接客をしているのだろうか。
 なんということだ。
 店主が守り続けてきた憩いの楽園が、まさかUGNが誇る問題児にそこまで踏み倒されていようとは。

「く、苦労なさっていることでしょうに。長尾ちゃん、だいぶ気が強い子ですから。あの接客ではお店の売り上げにも影響を及ぼしてしまっているのではないですか……?」

「いえいえ……むしろ彼女がバイトに来てくれるようになった日から、店の売り上げは良くなっているのです。満席になることなど滅多になかったのですが、彼女が来てからその頻度も増えたのですぞ。ありがたいことですな」

「あの接客で!?」

 理屈がわからなかった。
 彼女の接客で客が集まるなど起こり得るのだろうか。
 俺が知る限り彼女の接客は、最底辺に位置する世紀末の接客である。
 世界の神秘を感じた。何か不思議な力でも働いているのだろうか。

 などと考えていると、別の席で注文を取っている長尾ちゃんの声が聞こえてきた。


「アンタねえ! そのメニューは材料きれててもう売り切れなの! こっちが言わなくても根性で察知しなさいよ、この脳無し!」

「ブヒィィィィィッ! ありがとうございます!」


 変な客層の支持を得ていた。

「ははは、賑やかですなあ」

「あなたそれでいいんですか?」

 店主は長尾ちゃんの暴挙を笑顔で見つめるのみであった。
 悲しきかな。この店は一人の女王様によって完全に狂わされてしまっていた。
 まさか彼女がオーヴァードの力を使うことなく従者(豚)を生成する術を身につけていようとは。

 俺が頭を抱えていると、再び長尾ちゃんの声が聞こえてくる。


「はあ? コーヒー? 泥水でも啜ってればいいじゃない。どうせアンタには違いなんてわかんないでしょ」

「ブヒィィィィィッ! ありがとうございます!」


「ははは、賑やかですなあ」

「ねえ、本当にそれでいいんですか? バリスタを志し始めた頃にあなたが夢見た景色をもう一度ちゃんと思い出した方がいい」

 少なくとも、罵られて喜ぶ変態の蔓延る景色ではなかったはずだ……っ。

「ははは、まあたしかに、私が想定していた景色ではありませんがね」

 店主は再び髭を触りながらはにかんだ。

「こうして、普通ならば来てくれないようなお客様にもこうして足を運んでいただける。ありがたいことです。今のこの景色も、喫茶店としての一つの答えなのだと考えると、これもアリかなと思うのです」

「へえ……そういうものなんですね」

「ええ。それに……」

「それに?」

「私はね……彼女のことを純粋に気に入っているのです」

 店主は穏やかな表情で長尾ちゃんの方を見つめる。

「……と、いいますと……?」

 俺が問いかけると、店主は言葉を続けた。

「面接のとき、お金が欲しい訳を熱心に語ってくれましてね。なんでも、落ち込んでいる憧れの人にプレゼントをしたいだとかなんとか……。私は心を打たれましたな」

「へえ……アイツが、そんなことを……」

 それを聞いた俺は、長尾ちゃんの言葉を思い出していた。

『……諸事情で今お金が必要なのよね』

『天羽様は、きっとダンタリオンの件で酷く傷心なさってるの……』

『できる限り、ダンタリオン関連の話題はしないように』

 思い返せば、彼女の行動理念は彼女なりの優しさが反映されたものばかりだ。
 もちろん天羽ちゃんに対してだけに限る。だが、長尾ちゃんの人を思いやる心は本物だ。
 人のために本気になれる。
 人のために真剣になれる。
 それに関しては、俺も彼女を尊敬すべきなのかもしれない。

 あいにく俺はそういったものは、血生臭く薄汚れたいつかの過去に置いてきた。
 今俺に残っているのは、なけなしの自己満足の蜜を啜る廃れた喜びだけだ。
 だからこそ長尾ちゃんの生き方は、呆れる反面、俺は羨ましく感じているのかもしれない。

「……だってさ、天羽様?」

 そんな話を天羽ちゃんに振る俺は、今ニヤニヤと腹立たしい顔をしているのだろう。
 天羽ちゃんは眉一つ動かさずに、淡々と黒でも白でもないコーヒーをくるくるとかき混ぜている。

「…………知らないわよ。そんなこと」

「……さいですか。ま、こうやって慕ってくれている奴がいるってことだけは、知っておいてやってもいいんじゃねーの?」

「…………」

 俺は天羽ちゃんの痛みを知らない。
 そんな人間が、これ以上何を語りかけられようか。
 そんな無責任なことがどうしてできようか。
 ゆえに俺が、彼女に言えるのはこれだけ。
 俺が語ったのは、大層にひけらかした教訓でも、傲慢に掲げた説教でもない。
 一人のただの優柔不断メカわかめノッポの情けない「わがまま」だ。
 天羽夜宵を慕う者としての、些細なわがまま。
 差し伸べられた手を振り払わないでほしい。そんな寂しいこと、しないでおくれよ……と。
 情けなく訴えるしかない、無力なわがままだ。

『人は一人では生きられない』
 使い古された陳腐なフレーズだが、よく言ったものだと俺は思う。
 一人で歩けるほど、人間は強く出来ていない。
 彼女は家族の繋がりを失った。
 彼女は期待と信頼を失った。
 だからこそ、それでもなお寄り添ってくれる人達を受け入れて欲しい。
 そんな人達の手を、しっかりと握ってほしい。
 支部長とか、倉島君とか、あそこで怒鳴ってる問題児とかの手をな。

「……それはそれはもう長尾さん、鬼気迫る意気込みでしてね」

 俺が思いにふけっていると、店主が苦笑いで話を再開した。

「『貯めたお金で、ルミネセンス様の武勇伝を書き連ねた本を作るのよ! それを、彼女の陰口を叩いているクソチルドレンやクソエージェント達に配布して、彼女の素晴らしさを布教するの! ルミネセンス様に、かつての栄光をプレゼントするのよ!』とか何とか言っておられましたな。いやはや、私にはよくわかりませんでしたが……まあ、夢中になれるものがあることは良い事ですな。ははは」

 俺と天羽ちゃんの表情が一気に固まった。

「……」

「……」

「……だってさ、天羽様」

「…………やめさせて」

「はい……」

 判定はNOであった。


◇◇◇


「ごっそさんしたー」

 食事を終えた俺は、会計を済ませて天羽ちゃんと一緒に店を出た。
 長尾ちゃんが、見送りの挨拶をしに店の出入り口まで来てくれた。

「(梓原以外は)またお越しくださいませ〜」

「心の声聞こえてるんだけど」

「ケッ……!」

 バタン!
 嫌悪感溢れる睨み顔を最後に、喫茶店の扉は勢いよく閉められた。

「さて……」

 俺は喫茶店に背を向けて、天羽ちゃんに話しかけた。

「帰ろっか。天羽ちゃん」

 思い返せば波乱万丈な食事だった。
 だが、この食事で親睦を深められたなら幸いだ。
 長尾ちゃんや天羽ちゃんといった一部のUGNチルドレン達から嫌われている状態は、流石の俺でも心にくる。
 俺だって嫌われたままでは寂しい。ちゃんと仲良くしたいのだ。
 今日を境に、天羽ちゃんと仲良くやっていける第一歩を踏み出せたらいいな。

「……」

 すると天羽ちゃんは俺の方を見つめた。
 そして、口を開いた。

「……もう、私に関わらないで」

 俺は泣きながら支部へと走った。


◇◇◇


 後日、俺は長尾ちゃんの「ルミネセンス様栄光復活プロジェクト」の中止を説得するのに五時間を要した。

透華の秘密 生徒会長のお言葉

 
 
 南N市高校の制服を夕陽で照らしながら、峰影透華は帰路につく。
 この時間の周囲を歩く人々は、本日の勉学から解放されて上機嫌に帰宅する生徒が大半を占めている。
 
「……っ」
 
 しかしそんな中でただひとり、透華の姿勢はどことなく挙動不審だ。注意深く周りの様子を意識しながら、音もなく、比較的人の少ない道へとコソコソと消えていく。
 透華は通常ならばいつもと同じ景色の道を辿るのだが、今日はそこから逸れた道を選択して歩いている。というのも、その先にある書店に用事があるためだ。

 ではその用事とはなんたるや。
 言うまでもない、今日は「マジカル少女ののか 公式ファンブック2」発売日なのだ。

 なにを隠そう、生粋のマジカル少女シリーズファンである透華。当然、関連の商品は購入しておきたいのがファンの性。
 ファンなのだから、ファンブックを買わないわけにはいかない道理。発売日に、自身の弾き出せる最速をもって、聖書ともいえるファンブックを入手するために書店へ直行するのだ。

 さて、このファンブックの購入するにあたって、とある問題が存在する。
 それは単純明快。「恥ずかしい」ということだ。
 この「マジカル少女シリーズ」というコンテンツは、世間一般の認識では対象は幼稚園児から小学生……いわゆる女児向けアニメのカテゴリーに分類される。
 周囲の同級生もかつてはこの「マジカル少女シリーズ」を楽しんでいただろう。しかし、その対象年齢の期間中にはすでにそのコンテンツから脱却している。すなわち、皆卒業しているのだ。

 しかしここに、年甲斐もなくマジカル少女を応援する16歳女子高生がひとり。
 面白いものは面白いのだから仕方がないことは確かなのだが、それはそれとして恥ずかしいものは恥ずかしい。

 人通りの少ない書店を選択したのもこれが理由である。いつもの道にも書店はあるが、そこではいかんせん生徒たちとエンカウントする可能性が高いのだ。
 マジカル少女のファンブックなどという代物を買う姿を見られたくない透華は、わざわざ遠回りしてでも別の書店を選択する必要があった。
 
「誰も……見てないわよね?」
 
 気付けばもう書店前。
 透華は周囲を横目で執拗に睨みつけ、さらには全身の感覚をフル稼働し、学校の人間の気配がないかを再確認する。
 こういうときはキュマイラ特有の野生の嗅覚が羨ましくなる透華であった。 
 キュマイラ関連でふととある筋骨隆々プロレスエージェントが透華の脳内を走り抜けたが、彼と連動して思い出したくもないゾンビパニックの記憶も引っ付いてきたためキュマイラについては考えることをやめた。
 
「ふ、ふふふ……こんなところを学校の人間に見られるわけにはいかないわね……」
 
 息を整えいざ入店。自動ドアへ近付こうと一歩足を踏み出す。しかし、透華が自動ドアを開ける前に、店内側の人間によって勝手にドアが開いた。
 
「おっと……ってあれ? 透華ではないか。なにやっとるんじゃ店の前で」
 
「ギャーーーッ!」
 
 低身長の童顔に似つかわしくない老人のような古臭い口調。赤みを帯びた短めの黒髪。その前髪の向こう側で無邪気に光る赤い瞳。そしてその身に纏うは南N市高校の制服。
 店内側から出てきたのは、今一番遭遇したくない人物、暁冬乃であった。
 最近透華の学校に転校してきた、紛れもない「学校の人間」だ。
 
「ギャーとはなんじゃ。人の顔を見てその反応は酷かろう」
 
「な、な、なんで、こんなとこにあなたが」
 
「本を買いに来たに決まっておろう。ここ、本屋さんなんじゃから」
 
 書店の名前がプリントされた小さなレジ袋をフリフリと揺らしてみせる冬乃。中には購入した本が入っているのだろう。
 
「ほ、本屋なんて、他にもいくらでもあるでしょう!?」
 
「私が住んどるアパートから見てここが一番近いんじゃ」
 
 そう言いながら、冬乃は透華の後ろの方を指さす。
 その指は、住宅などを数軒を通り越した先にある、こじんまりとしたアパートを指していた。冬乃の住むアパートはここから見える程度には近い場所にあった。
 
「ア、アパートに住んでんだ暁さん……てっきり園寺さんと同居生活でもしてるのかと思ってた」
 
「あ、あんな変態と生活できるわけなかろう! なんて禍々しいことを言うんじゃお前は!」
 
「あの人一応支部長なのにな……」
 
 好いている部下にここまで嫌われた挙句、「禍々しい」などと評される支部長がはたしているだろうか。
 透華はそんな園寺に多少の憐れみを抱いたが、冬乃に対する日々の変態行為を考えると当然だろうと、すぐにその感情は取り消した。
 
「それはそうと、透華はなんの本買いにきたんじゃ?」
 
「ほえ!? えーっと……それは……そ、その……」
 
 突然の質問に言葉を詰まらせる透華。
 いくらでも虚偽の目的をでっちあげることはできるはずなのだが、それを咄嗟に出せるほどの思考の余裕は今の透華にはなかった。
 たとえば「人を落とす恋愛テクニック本」や「料理本」などといった本を買いにきたとなれば違和感はないかもしれない。透華は学生なのだから「参考書」といったものも自然だろう。しかし、今は透華にとっての緊急事態。焦りと錯乱で、これらの簡単な対応例もまともに整理できず、思考がショートし混乱状態。

 汗を滝のように流しながら、動揺で上手く機能しない思考を必死に回転させ、天下のノイマン脳はひとつの回答を叩き出した。
 
「人間を料理する参考書です!」
 
 ここに狂人が誕生した。
 
「……」
 
「え、えっと……」
 
「透華」
 
「は、はい」
 
「あくまでこれは私の持論じゃが。オーヴァードとジャームの間には……もしかしたら大した垣根など存在しないのかも、しれぬな」
 
「なんで今その持論を出したのよ! 私がジャームと同類のいかれ頭だとでも言いたいんですか! 誤解ですっ……誤解なんですよ!」
 
 これがオカルトにのめりこんだ人間の末路か、とでも言いたげな目で透華を見つめる冬乃。そして冬乃の両肩を掴んで必死に言い訳をする透華。
 なんと憐れなことか。窮地に立たされた腹黒元オカルト部には、もはや聡明なノイマンの片鱗は残っていなかった。しかも、存在自体がオカルトのようなものである冬乃に変人扱いされるということが、透華にとっては屈辱的であった。
 
「誤解と言われてものう……透華は『学園ぐらし』とか『まどかマドカ』とか、そういうえっぐいアニメ好きじゃろ? 妙に信憑性があるんじゃが」
 
 冬乃の言う「学園ぐらし」や「まどかマドカ」は、残酷な描写と鬱展開に定評のあるアニメとして有名な作品である。余談だが、透華に勧められるがままにこれらのアニメを視聴した一火は、その後三日寝こんだという。
 
「え、えっぐいものそれ自体が好きなんじゃないんですよっ! 単純に内容が面白いから好きなだけなの! 暁さんも見てくださいよ面白いですから!」
 
「勧めてくれるのはありがたいのじゃが……私はそういうアニメはちと得意ではないのう。血とかそういうの、私こわーい、じゃから」
 
「人の血を吸うような人がなに言ってんのよ……」
 
 清純な女子高生を装い、ぶりっ子をかます冬乃。いったいどこでこんな立ち振る舞いを覚えてくるのだろうか。実年齢100歳を超える少女は、着々と女子高生に染まりつつあった。
 
「……それで、暁さんはなにを買いにきたんですか?」
 
 ひと悶着ののち、速やかに話を切り替える透華。透華にとって、この話題をこのまま続けるのはごめんであった。
 
む、私か? ふふふ、私はの〜〜〜」
 
 透華の問いかけに対して、冬乃は待ってましたと言わんばかりに意気揚々とした笑顔を見せた。
 
「驚くな! なんと透華へのプレゼントを買いにきたのじゃ」
 
 そう言いながら冬乃は、胸を張り、手に持っていた小さなレジ袋を誇らしげに掲げた。レジ袋が形づくる商品の形状から見て、本は一冊であろう。
 思いがけない返答に、透華は目を丸くした。
 
「わ、私にプレゼント……?」
 
「うむ! 見ておれ〜」
 
 無邪気にレジ袋の中をゴソゴソと漁る冬乃。そして数秒袋を漁ったあと、その本を引っ張り出した。
 
「じゃーん! 『マジカル少女ののか 公式ファンブック2』じゃ! これを透華にプレゼントしてやろう!」
 
「えっ……いいんですか? や、やったぁ! ありがとうございます!」
 
 眼前に差し出された本を、嬉しそうに受け取る透華。
 
「…………………………………………あれ?」
 
 しかし、本を受け取ってから数秒考えたのちフリーズする。透華の額から一筋の汗が伝い、血の気が一気にひいていく。頭の中が真っ白になり、思考が停止する。
 そう、なにかがおかしいのだ。今の一連のやりとりに、どうしても看過できない点が存在する。

 ──なにがあってもバレてはいけない、透華の最大の秘密。
 
「うん、うん、喜んでくれてなによりじゃ。透華はマジカル少女が大好きじゃからの〜」
 
「ピ゛※ッ◯」
 
「何語じゃそれは」
 
 混乱した脳がわけのわからない呻き声を絞り出すと同時に、透華の体が硬直する。
 
「ど、ど、ど、どうして、それを」
 
 震える口をパクパクと開閉しながら、掠れた声で冬乃に問いかける透華。
 そう、看過できない点というのは、冬乃が透華のマジカル少女好きをすでに知っていたということである。
 当然、透華は他人にこれを教えたことはない。話題に出したこともない。マジカル少女好きの片鱗のさらに片鱗すら残さない立ち振る舞いをしてきたつもりである。
 
 いったいどこから漏れたのか。
 この暁冬乃という女、透華に初めて接触してから大して日も重ねていない。にもかかわらず、親友の佐藤と桜井すら知りえない最大の秘匿情報を入手していた。

 今向けられているこの純粋無垢な冬乃の笑顔は、透華にとってはもはや戦慄と恐怖の象徴でしかない。形容しがたい絶望感に四肢が震えるようであった。
 そして今、眼前の悪魔が口を開いた。
 
「一昨日、げーむせんたーで透華を見かけてのう。UFOきゃっちゃーで『マジカル少女ののか限定たぺすとりー』をとろうと躍起になっとったから。好きなんじゃな、と」
 
「イヤーーーーーッ!」
 
 なんたる失態か。
 たしかに一昨日、透華はゲームセンターでUFOキャッチャーに興じていた。
 ガラスケースの向こうに飾られた神聖なる一枚を手中に収めんとする欲望が脳を支配してしまった。ゆえに、聡明さに定評のあるノイマン脳ですら周囲からの目を考慮するに至らない事態となってしまったのだ。
 透華の顔はすでに、羞恥で沸騰した血液が駆け巡り、真っ赤に染まっていた。
 
「ううううう〜っ!」
 
 透華は頭を抱えた。欲望に溺れた過去の自分にラリアットかましてやりたい気分である。今なら、プロレスエージェント円枝を凌ぐクオリティのラリアットを繰り出せる自信があった。
 よりにもよって、冬乃に知られてしまったことが最悪であった。すでに学校の人気者で数多くの繋がりを持っている冬乃は、学校中にこの情報を漏らす発信源になりうるのだ。仮にいくらここで口止めしても、冬乃が他人に喋らない保証などどこにもない。
 すでに透華は詰み状態であった。
 
「……ふ、ふふ……もう、殺すしか……」
 
 透華の目は、虚空を見つめ据わっていた。
 
あっはは、ツクヨミジョークか。私は死なんというのに。なかなか面白いではないか!」
 
「面白く! ないわっ!」
 
 マジカル少女のファンブックを抱えながら、地団駄を踏む透華。それを意にも介さずケラケラと笑う冬乃。なかなかに酷い絵面が展開されていた。
 子連れの女性が近くを通りかかったが、ふたりを確認するやいなや女性は子の視界を手で覆ぎながらそそくさと通り過ぎていった。
 
「透華はむっつりスケベじゃから、えっちな本と迷ったんじゃ。でもマジカル少女の方で正解だったようじゃ。よかったよかった」
 
「マジで殺すわよ」
 
「こ、こんなところで弓を出そうとするな! 暴力反対じゃ!」
 
 悲痛な殺意が透華から発せられる。それは、かつてブラドレイジに向けたものに引けをとらないであろう。
 
「知られてしまったからには、もう、もう、私は生きていけないんです! あなたを殺して私も死ぬわ!」
 
「火曜サスペンスか! なんじゃなんじゃ。そんなに私にマジカル少女好きが知られたのが嫌なのか!?」
 
「だって……! だって……!」

◇◇◇

「あはは、なんじゃそんなことか」
 
「『そんなこと』じゃありませんよ……!」
 
 透華は仕方なく、事情のすべてを冬乃に打ち明けた。話を聞いた冬乃は、拍子抜けだったと言わんばかりにケラケラと笑い飛ばしている。
 透華の頬は変わらず真っ赤に染まっている。
 
「なんにも恥ずかしいことありゃせんだろう。透華がなにを好きであろうと誰が笑うものか」
 
「暁さんにはわからないでしょうけど、今の世間一般では高校生にもなってマジカル少女が好きなのは恥ずかしいことなんです!」
 
「うーむ、そういうものなのか……?」
 
「そういうものなんです!」
 
 冬乃は手を自身の顎に添え、首を傾げた。
 今を生きる青春期の乙女は複雑で繊細であった。冬乃にとっては理解が難しい世界である。
 
「と、とにかく、このことはみんなには内密に──」
 
「おや、暁に峰影じゃないか。本でも買いにきたのか?」
 
 峰影が言葉を終える前に、冬乃とは違う、新たな声が割って入ってきた。
 よく通るはっきりとした声。芯の通った人柄をそのまま投影したかのような声色は、聞けば一発で持ち主がわかるものだった。

 声がした方向に透華と冬乃が目を向けると、そこには南N市高校の生徒ならば誰もが知る人物が立っていた。
 一寸の歪みも許さない整えられた襟、完璧に着こなされた南N市高校の制服。長く揃えられた黒髪。深紅に輝く凛々しい双眸。
 冬乃のクラスメイトにして南N市高校の生徒会長、明空一火であった。
 
「おお! 一火ではないか!」
 
「ギャーーーッ! 生徒会長!」
 
 冬乃は無邪気に微笑み、透華は絶望の悲鳴をあげた。
 今、学校の人間に極力接触したくない透華にとって、生徒会長の登場は厄災以外のなにものでもなかった。
 
「わ、私が来ると都合が悪かっただろうか……?」
 
 透華の反応を見た一火は、あからさまにしょんぼりした表情を見せた。
 
「い、いえいえ! そんなことありませんよ! ちょーっと私情で取り乱してしまいまして」
 
「そうなんじゃよ。さっきから透華がぎゃーぎゃーうるさいんじゃ。こやつのう、マジカル少女のことが──
 
「あなたは黙ってなさい……っ!」
 
「むぐっ」
 
 透華は一火に聞こえない程度の小声で叱咤しながら、冬乃の口を慌てて押さえこんだ。
 
「い、一火さんはなんでこんなところに? なにか本でも買いにきたとか?」
 
 そして、汗を流し慌てふためきながらも必死に話題を変えようと会話を切り出した。
 
「いやなに、参考書を買いにきたのだ。三年生は受験もあるからな。勉強もより一層、本腰を入れなければならない」
 
「あ、あはは、さすが生徒会長ですねぇー」
 
 透華は無難な会話でこの場を切り抜けようと必死に立ち回る。その隣で、冬乃がある点においてなにかを心配するような表情を見せている。
 
「な、なあ一火。その参考書は普通の参考書じゃよな?」
 
「……? 他になにがあるというのだ」
 
「なんでも、人間を料理する──
 
「次はその口縫うわよ」
 
「むぎゅ」
 
 般若のような顔で静かに冬乃の口を掴む透華。マジカル少女の件を乗り切ろうと神経をすり減らす現状だけでも手一杯なのに、これ以上この小悪魔に新たな爆弾を持ちこませるわけにはいかなかった。
 
「ど、どうしたのだ……?」
 
「いえいえ、なんでもないですよ」
 
 ふたりの奇妙なやりとりを見て、動揺じみた怪訝な表情になる一火。透華は表情筋をフル稼働し、瞬時に強引な笑顔をつくって会話を再開した。
 
 「でも、なんでこの本屋に? 他にもお洒落な本屋はいっぱいあるのに」
 
「大した理由はないぞ。私の家から一番近い書店がここなのだ。我が校の生徒たちもよく利用しているぞ」
 
「ほえ!?」
 
 この書店、アクセスが優秀であった。
 
「だ、誰も利用してないと思ったのに……!」
 
「おい、お前の算段ボロボロじゃぞ。本当にノイマンか」
 
 隣にいた冬乃が、呆けている透華の体を肘でつっつく。透華はそれに対して「うっさいわね……!」と小声で返す。
 そんなやりとりをしている間に、一火があるものを発見する。
 
「……ん?」
 
 頭を抱える透華の右手に添えられた本が一火の目に留まった。当然、これはマジカル少女ののかのファンブックである。
 
「それは……」
 
「あっ! い、いやっ、あはは!」
 
 一火の視線にいち早く気付いた透華は、即座に本を背中側に回して隠した。
 が、もう時すでに遅しである。生徒会長の目には、ばっちりと本の表紙が映された。その可愛らしい表紙を確認した一火は、穏やかで楽しげな表情を見せた。
 
「ははは。やっぱり峰影は本当にマジカル少女が好きだな。うむ、趣味をもつのは良いことだ」
 
「う、うううっ……バレたぁ……」
 
 寛容な笑みを浮かばせる一火。そして無念にも趣味がバレてしまい、頬を染めて唸る透華。
 
「…………………………………………あれ?」
 
 しかし、その羞恥の表情も数秒ののちに消えさった。というのも、今の一火の言葉の中に、看過できない点があったためである。
 羞恥の顔が真顔に変わり、真顔が引きつった笑みへと変わっていく。
 今の一火の言葉を頭で反芻しながら、ある確認をするため透華は口を開いた。
 
「や、『やっぱり』ってどういう意味ですか……? 私がマジカル少女好きなの、前からご存知で……?」
 
「うむ、知っていたぞ。だいぶ前からな」
 
 一火はさらりと答えてみせた。
 
「ど、ど、ど、どうして」
 
 今日の透華はコロコロと表情が移り変わり忙しい。またしても透華の顔は羞恥の色に染まっていった。
 冬乃のみならず、一火にまで知られていた。これは想定外も想定外である。今まで全力でひた隠しにしてきた秘密が、知らぬ間にこうも漏れている。透華にとって、恐怖と困惑以外のなにものでもなかった。
 
「以前、家電量販店で峰影を見かけてな。玩具ゾーンに陳列されたマジカル少女の玩具をいつまでも楽しそうに眺めていたものだから……好きなのだな、と」
 
「イヤーーーーーッ!」
 
 最高潮まで熱せられた透華の頭部からは、すでに湯気が発生していた。
 
「お前、秘密の漏洩にうるさいくせにセキュリティがガバガバじゃのう……」
 
「うっさいわ!」
 
 隣では冬乃が呆れた目で透華にツッコミを入れ、透華が余裕のない裏返った声で唸る。
 
「しかし凄いのう。その場面に遭遇したのは、おそらくまだ透華と本格的に知り合う前じゃというのに」
 
 そう、驚くべきは一火の記憶力である。
 一火と透華が本格的に知り合ったのは、ほんの数日前のゾンビパニックの日が初めてである。しかし、一火の話を聞いた限りでは、透華を家電量販店で見かけたのはそれよりも前と想定される。
 つまり一火は、あくまで大量に存在する同じ学校の生徒のうちのひとりでしかない「峰影透華」をしっかりと認識した。加えて、そのなにげない日常の一コマを今の今まで鮮明に覚えていたのだ。
 
「うわあああん! なんで覚えてるんですかぁ!」
 
 生徒会長としては素晴らしい限りだが、透華にとってはたまったものではない。透華は本で顔を隠しながら、本で遮られた籠った声で痛烈な叫びを響かせた。
 
「す、すまない。生徒会長たるもの、生徒ひとりひとりを知っておくのは当然の責務で」
 
「本当に凄い人ですね尊敬します……」
 
「そ、それは褒めてくれているのか? あと顔から本を離してくれないか。可愛らしいマジカル少女の表紙に悲痛な叫びが合わさってなんとも言えん画なのだ」
 
 透華は意気消沈。一火はおろおろと慌てふためいている。
 当然、一火には悪意は塵ひとつ存在しない。透華のマジカル少女好きのエピソードを赤裸々に話すのは、これがまったく恥ずかしいことではないと一火が本心から思っていることの象徴に他ならない。それどころか、これに対してそもそも「恥ずかしい」という概念すら浮上していないであろう。それゆえに、透華がなにに対して悶えているのかが皆目見当もつかない状態なのだ。
 
「透華はな、マジカル少女が好きなことが周りに知られたくないんだそうじゃ。なんでも、幼児向けのアニメを好きなのは恥ずかしいのじゃと」
 
 見かねた冬乃は、ふたりの間に割って入って事情を説明した。
 
「な、なぜだ? たしかにその作品は幼児を対象としたものだが……それのどこに恥ずかしがる要素があるというのだ」
 
「うううっ……眩しい……っ。この聖人会長めぇ……」
 
 本気で困惑する生徒会長。その悪意の全くない眼差しは、腹黒として名を馳せている透華を圧倒的なまでに白く照らす。まさに自分とは対極の人間。透華はただ感嘆するのみであった。
 
「……峰影」
 
「なんですか……」
 
 いまだに顔を本で覆い隠す透華の肩に、一火はそっと手をのせる。そして、真摯に言葉を続ける。
 
「透華の好きなものに、誰がけちをつけられようか。『好き』とは素晴らしいものだ。尊重すべきものだ」
 
「ううっ……会長……」
 
 清い光に浄化されるかのように、透華は一火の言葉に耳を傾ける。
 
「まずは、マジカル少女が好きな自分を、透華自身が恥ずかしいと揶揄することをやめることだ。なにも恥ずかしいことなどない、堂々とすればいいのだ」
 
「……本当、ですか?」
 
 顔にひっつけた本を少しずらし、透華は本の横から片目を覗かせて一火を見つめる。
 一火はそのか弱い瞳に応えるように、真っ直ぐな視線で見つめ返した。
 
「うむ! 千差万別。蓼食う虫も好き好き! 誰にも馬鹿にさせはしないさ」
 
「その通りじゃ! 『好みは人それぞれ、子供たちの好き嫌いもそれぞれ』じゃ。胸を張るがよい」
 
「一火さんはともかく、暁さんのは誰の言葉よ……」
 
「近所の田中さんじゃ」
 
「誰よそれ! あなたの近所に住んでる主婦の食卓事情なんてどうでもいいわよ!」
 
 余計な横槍を入れた冬乃に文句を吐き散らかす透華。気の利いた格言の知識がない冬乃は適当な近所の主婦の言葉を引用してみたのだが、どうやら透華には不評だったようだ。
 
「ふふ、でも」
 
 文句を吐くやいなや、透華の表情は穏やかな笑顔へと変わる。
 
「おふたりとも、ありがとうございます。そう言ってもらえて、とっても嬉しいです」
 
 透華は白く長い髪をなびかせながら、冬乃に貰った本を両腕で大事に抱える。
 
「本、ありがとうございます。大事にしますね!」
 
「うむ! そう言ってもらえて私もプレゼントした甲斐があるというものじゃ」
 
 気付けば空は、橙色から藍色へと移り変ろうとしている。うっすらと佇んでいた月もその姿を輝かしく主張しはじめた。
 本格的な帰宅の時刻だ。学校からここまで歩き、長い間話しこみ……思いの外、時間が過ぎていたようだ。
 
「もうこんな時間ですか。私、そろそろ帰りますね」
 
「ああ、気をつけて帰るんだぞ」
 
「ふふ、一火さん。小学生じゃないんですから。大丈夫ですよ」
 
 一礼をしたのち、透華は一火と冬乃に背中を向けて帰宅を再開した。
 しかし「あ」と小声をもらしたあとすぐに足を止めて、ふたりの方へ振り返る。なにか言い残したいことを思い出したのか、粘りつくような視線で口を開いた。
 
「おふたりには言いくるめられましたが、それとこれとは話が別ですからね! 私がマジカル少女好きなのは、断固、他言無用ですからね!」
 
「はいはい、言わん。言わんから安心せいて」
 
「ははは。峰影は用心深いな」
 
「絶対ですからね!」
 
 最後の念押しを残したあと、透華は、藍色に染まりかけの夕空の下を歩いていった。
 一火と冬乃は、まるで親が手のかかる子を見るような笑顔でその背中を眺めながら見送る。
 
「なかなか可愛いところがあるな。峰影は」
 
「私知っとるぞ。あれはツンデレというやつじゃ。激萌え、激エモじゃ」
 
「なんと! 暁は難しい言葉を知っているな!」
 
「ふふん、いっぱい勉強したのじゃ」
 
 すると、ドドドドド、と遠くから人が駆ける音が聞こえてくる。ふたりの前方にある人型のシルエットが、その音とともに大きくなっていく。
 
「き、こ、え、て、る、わ、よ! 誰がいつあなたにデレたってのよ!」
 
「うわ、帰ってきおった! めんどくさい女じゃのう! 一火、逃げるぞ!」
 
「え、ええ? 私は今から参考書を」
 
「知らん!」
 
「ちょ」
 
 女子高生たちの賑やかな声が、これからさらに輝くであろう月の下に響き渡る。
 そこには、不死身もなにもかも関係ない、純粋な女子高生の日常があった。
 鬼気迫る表情で追いかける透華。
 情けない声を上げながら後輩から逃げる冬乃。
 冬乃になされるがままに引っ張り回される一火。

 三人が各々帰宅したのは、すっかり暗くなった、今から一時間後のことであった。